皆さん、こんにちは。
会長として、初めてのごあいさつを申し上げます。
今日の例会が始まる前に、「アンダンテ・フェスティーボ」という曲を流してもらいました。
シベリウスが、親しい友人の会社の設立式典のために献呈した作品です。
弦楽合奏が静かに始まり、徐々に厚みを増し、最後にはティンパニの重みが加わって、会場の空気を少し張りつめたものにしてくれ、曲が終わる頃には、気持ちもすっと整い、自然に例会が始まりました。
音楽が心を整え、場をつくる そういう社会的な機能を持っていることを、改めて実感いたしました。
さて今日は、私たちのクラブの歌、「蔵王を仰ぐ」について少しお話をしたいと思います。
この歌は、クラブの30周年を記念して作られたもので、作曲は服部公一さん、作詞は私の父・五十嵐康祐です。
なぜこの歌が生まれたのか、はっきりとした記録が残っているわけではありません。
そこで、私なりに少し調べてみました。
当時の会長経験者を見てみると、28代が父・五十嵐康祐、29代が鈴木伝四郎さん、30代が叔父の豊田義一。
でも、おそらくこのお三方が「歌を作ろう」と言い出したのではなくて・・・
私は、高坂知甫さんが音頭を取られたのではないか、と考えています。
高坂さんは、チャーターメンバーであり、ガバナー経験者でもありました。
92歳で亡くなるまで誇り高いロータリアン。1999年のご葬儀では、当時幹事だった飯田さんが司会をされたそうです。
学生時代は満州医科大学で学ばれ、当時満州に移住していたロシア人音楽家からチェロを習っていました。
ロシア革命の影響で文化人が多数流入していたそうで、ロシア人と日本人学生とで即席のオーケストラをつくり、音楽を楽しんでいたと聞きます。
高坂さんが33歳だった昭和15年、皇紀2600年の記念事業が行われました。
日本では政府主導で音楽を含む文化事業が大々的に展開されました。
このとき、ドイツからリヒャルト・シュトラウスが「奉祝祝典音楽」を、イタリア、スペイン、ハンガリーなどの友好国だけでなく、アメリカ、イギリス、フランスなど世界各国から作品が寄せられました。
音楽が国家的な記念事業の中心に置かれ、国際交流の手段として用いられる。
そうした出来事を、当時33歳の高坂さんは、高い感受性で目の当たりにされ、「音楽は社会と人とをつなぐ力を持っている」と実感されたと思います。
その後、昭和27年、山形フィルハーモニー交響楽団の設立にも尽力されました。
最初の常任指揮者は、当時まだ10代だった服部公一さん。
ちなみに服部さんと、冨田エレクトはご親戚にあたるそうです。
そんな高坂さんが、「みんなの歌を作ってみないか」と言い出されたのではないか。
そして、公募となった作詞に、応募がないと洒落にならないから、と父に「君も用意しておきなさい、曲は服部くんにお願いしておいたからね」、のようなことをお話しされたのではないか、と。
私は小学生のころ、父に連れられて何度か高坂さんのご自宅を訪ねたことがあります。
「ちょっと弾いてごらん」と言われて、練習曲を弾いたところ、たぶん、ブルグミュラーか何かの軽い曲だったと思います、後ろでチェロを合わせてくださったことがありました。
そのとき、「音楽って楽しいな」「アンサンブルっていいな」と思ったのを、なんとなく覚えています。練習は大嫌いでしたけどね。
このように、西クラブは、先輩方の思い、行動の積み重ねで、少しずつ「文化」を形づくり、今に至るわけです。
この文化を大切にしながら、次の世代へとつないでいけるよう、微力ながら取り組んでまいります。
どうぞ、一年間よろしくお願いいたします。